こんばんは、慧です。
最近老後のこと、死後のことを考えるようになってきました。
別に重い病気になったり、生死をさまよったわけではないのだけど、ブログを書く理由を考えている内に思考が少し広がってしまったのです。
ブログのようなデジタルデータは半永久的に残ると思われがちだけど、実はそうじゃないよねっていう話が発端。
オンライン活動をやめるとき
私にとってブログやSNSのようなオンライン上での活動(執筆と閲覧)は、今や実生活に必須のルーティーンになっています。
特にSNSでは世界のトレンドが掴みやすいし、電車の遅延、お天気、災害のような日常生活に近い情報も得ることができる。
信憑性、発信源の話になるとデメリットが目立つが、多くの人が同時多発的に騒いでいるのであれば「真実に近い」と思い込むこともできる。(みんなが山手線が止まってると発信していれば、概ね実際に止まっているでしょう。)
一方でブログはマニアックな情報や気になる人物の活動記録を追うのに適している。
SNSがメジャーなら、ブログはマイナーなものを対象にしているイメージ。
境遇が近かったり、同じくらいの熱量を持った人が書いたブログを見つけると、一種の親近感が湧いてきます。
以上のようなオンライン活動は多くの利益をもたらしてくれたのにも関わらず、今は「やめたい」に近い消極的な姿勢をとっていて、その理由はきっと軽くはないのだと思っています。
これまでやめてきたオンライン活動
ブログのようなデジタルデータをインターネットの海に初めてばら撒いたのは、今から約20年前、大学時代のmixi日記だと思います。
友達に招待されないと始められない招待制SNSで、お互いの日記を読み合ったり、足跡というマイページへの訪問者が追跡できる機能などが充実していました。
良かった点は日記の機能だったり、オンライン上で気の合う人とやりとりができたこと。
同じお絵描き好きな人だったり、同じ誕生日の小学校教員と話ができて、それなりに充実したSNSライフでした。
一方で友達の日記が別の友達をやんわり傷つけたりして、喧嘩に発展したことも目の前で見たことがあります。
mixiに限らずSNSというものは、その人の特性を増幅する場合もあって、良い方向にも悪い方向にも傾きやすい性質があるのかな、なんて思っていました。
それが原因で、今でいう「SNS疲れ」のような、何とも言えないギクシャクした人間関係に疲れたこともあったように思えます。
mixiをやめたのはまさにこのSNS疲れが一つの原因。ちょうど学生から社会人にステータスが変わったという点も大きい。
mixiの後はTwitterが台頭してきて、私はそこまでハマらずにお絵描きに特化したpixivと、外国人と言語交換ができるSNSに居場所を移しました。
そして、何度かwordpressのブログを立ち上げて今に至ります。
これまで力を入れてきた各種SNSをやめてきた理由を考えると、やはり人間関係によるものが大きい気がします。
pixivはほとんど誰とも交流しなかったし、言語交換SNSは仕事が忙しくなり英語でコミュニケーションする体力が無くなってしまった。
人との交流に何らかの障壁があったりすると、生活必需品ではないオンライン生活からは自然に離れていく気がします。
無理に疲れるようなことは、誰だってしたくないと思いますし。(情報源として必要不可欠な人もいるだろうけど)
このブログをどうするか
さて、この流れで当ブログについてやめる or やめないの話を最近考え始めたわけです。
私がこのブログを書く理由は自分が将来見返すためで、フィルムカメラ好きと繋がろうだとか、PV数をガンガン増やして副収入を得ようとは考えていません。
あわよくば似た者同士で交流できれば良いと思った時期もあったけれど、ブログを始めて早3年、誰かと繋がったことはありません。
きっと今後も人と繋がる可能性は低く、ただただ自分と彼女が見るだけのインターネット上の孤島のまま、いつの日か海に沈むのだろうと思っています。
そんなことを考えていると、わざわざオンライン上のブログに記録を残すモチベーションが下がってきたし、「ブログを書くために何かしらの活動をする」というほぼ無意識下にある自分の行動原理に無理が生じてきました。
そして人生のステージが上がっていくにつれ、オンライン上での活動よりも圧倒的に現実世界での人間関係を充実させていく必要性が増してきました。
端的に言えば「ブログを書いている暇など無いでしょう」ということ。
ブログをきっぱり消してしまうか、将来自分が見返す価値を最低限残した省エネなペースで続けていくか。
続けていくとしたら、今より楽しいと思える記事の書き方を作りたい。
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紙で残る祖父母の記録
祖母と同じ小学校教員になろうとしてから、祖母がどんな教員だったのかを知りたくなりました。
もう30年以上前に亡くなっているし、教員時代の話を知る術はなく、手記でも何でも残っていれば良かったのにと思う。
祖父もカメラ、楽器、お絵描きなど、好きなことが自分と似ているし、両親から聞く話も面白いものだから余計に好奇心がくすぐられる。
が、祖父母が本や日記でも書いていない限りじっくりと時を超えた対話をすることは不可能なわけです。
自分の死後、もし子供や孫に恵まれて、さらに万が一に子孫が私のやってきたことに興味を持ってくれたとき、何か残せるものはないものかと考え始めました。
ブログは死後にサーバー代を払えなくなるから消えてなくなってしまう。
たとえ無料ブログに引っ越ししていても、故人のアカウントはいずれ消されるでしょう。
つまり、オンライン上の活動は、その履歴が一生残ると思われがちだけど、意外にも人間の寿命と同じくらいか短いものなのだと思う。
確実に未来に残せるとしたら、やはり紙媒体のような物理的な記録装置が最強。
実際、祖母の話が話題にあがったのは、実家のお掃除で写真が発掘されたから。
撮影時期は今から90年前なのにも関わらず、紙ならばこんなくっきりとした画像を現代まで保存することができる。
そう考えると、彼女と遠距離だったときに書き溜めた交換日記とか、フィルム写真の印刷なんかは、ブログよりも作る価値のある記録にちがいない。
退屈しない人生を共に
ブログへの執着や、現実世界での人間関係の重要性を考えながら、そして38℃の熱を出しながら今後の記録の残し方について書いてみました。
薬のおかげで気分がHIGHになり、うっかり記事にしてしまいました。
オンライン上の活動記録は寿命が短いけれど、やっぱりブログを書く行為は続けたい気持ちが残っています。
ブログを書籍化するサービスもあるようだし、完全に消えてしまう前に紙媒体に移すことはできそうです。
あとは、自分がより楽しめる記事の書き方を思いつきたい。
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